触れれば壊れるような脆さの、

 空気が張り詰める瞬間がある。
 例えば一秒、例えば数十秒。流石に一分以上ということはないが、息をするのも躊躇われるような緊張感。それは、八重倉が息を呑むことで始まる呪縛。






 『今日そっち行くから。酒用意しとけよー』

 会社の昼休みにかかってきた慶太からの電話。液晶に表示された名前に、出るのを少しも躊躇わなかったと言えば嘘になる。会いたくないわけではない。でも、積極的に会いたいかと問われれば、応とは言えない自分がいることも確かだ。
 電話を終えてから暫く開きっぱなしだった携帯を閉じて、スーツの上着のポケットに仕舞う。それと引き替えに煙草を取り出して、一本を口に咥え火を点した。ヤニの匂いが漂う。
 ゆっくりと吸い込み、細く長く吐き出す紫煙。換気口に吸い込まれていくそれを見つめながら、ソファの背もたれに身を預ける。喫煙室のソファは少し硬いと専らの悪評だが、俺にはこれくらいの身が沈みすぎない程度がちょうどいい。
 ふと、視線を感じた。禁煙ブームのご時勢のせいか、喫煙室には俺一人しかおらず、その視線がどこからのものかなんてことは、考えなくてもすぐに分かった。
 喫煙室のドアに嵌め込まれているガラス部分に視線を向ければ、今年の新人の中では可愛さトップクラスだと噂されている女子社員が一人。俺と目が合うと、にこやかに微笑み、軽く頭を下げ去っていった。近くにいれば、華やかな香りが漂いそうだ。
 こういう場面で必ず思うことがある。誰にも言えないあの過去さえなければ、俺は今頃、結婚でもしていたのだろうかと。

 その日は定時まで仕事をした後、二時間ほど残業をし、業務を終えた。俺は結局、慶太に言われた通り、二人で飲む酒を調達して帰宅するのだ。
 そんなこと、いつものこと。慶太の気まぐれに付き合い、俺の気まぐれに付き合わせ、他愛ないことで笑いあい、ふざけあう。あの頃となんら変わりない関係性、日常。
 その中で決定的に変わってしまったことにだけ、俺達は、目を逸らし続けている。






「あ、友瀬。おせーっつの」
「すんませーん。って、俺遅れるってメールしたじゃん」
「あれ、そだっけ?見てねーや」
「ちょっとちょっと、頼みますよ八重倉さーん」

 家に着くと、既に慶太が玄関前で待っていた。スーツの上に着ている黒いコートの襟に、首を隠すように竦めていた。男のくせに手触りのよさそうな黒髪が、襟にかかっている。
 隣に並ぶと、「夜はまださみーんだぞ」なんて文句を言いつつ俺の手から鞄をとる。中から鍵を出し開錠するためだ。俺としては缶ビールの詰まったビニール袋を受け取ってほしいところだが、先に玄関を開けてしまうほうが合理的であるし、何より俺達の手が触れ合うことがない。慶太が、それを極力避けているらしい節を、感じることがある。
 それの理由はきっと一つで、あの11年前から壊すことも守ることも出来ず、ただ放置しているあの出来事のせいに他ならない。

「刺身買ってきたからツマミで出してくんねー?」

 ビニール袋をガサガサと音させながらキッチンに向かう俺に、慶太が、持っていた小さなトートバックを手渡す。無地で白いナイロン製のバックは所謂エコバックというやつだ。

「エライな八重倉。こういうの使ってんだ」
「まぁな。ほら、俺らも来年30だし、これぐらいは、みたいな」

 そう、俺達は来年三十歳。今年は二十代最後の年だ。
 三十路を目前にしたからこそ、その路に分け入ってしまう前に、あのことにケリをつけなきゃいけないんじゃないだろうか。

 11年前の、あの日。放課後の教室で、俺が慶太にキスをしてしまった直後。唇を離した俺達は一言も発することができず、ただ沈黙だけが落ちた。
 たった数秒の沈黙。その間に考えたことならたくさんある。きっと慶太もそうだったろう。けれど慶太は俺に何を言うでもなく、慌てるように荷物を片して教室を立ち去った。
 翌日、さすがに少し会い辛いと思っていたのだが、俺に会った慶太は「おはよー」と、普段の調子で声をかけた。声の調子はいつもと変わらないようにしていたけど、明らかに表情と身体は強張っていた。
 あのときの俺は、その些細な変化を、見て見ぬフリしなければならないんだと思った。だから、俺も同じように「おはよー!」と返した。一瞬、慶太が眉間に皺を寄せたのも、気付いてないフリをしなければいけないんだと思った。
 その瞬間から始まったのだ。それまでと変わらぬ友達同士、の、フリ。

「しっかりするか的な?でも、いくつんなっても騒ぐとこは騒ぎてーよなー」

 苦い笑いになってしまうのは、まだいまいち自分達の歳を認識できないせいかもしれない。
 慶太が買ってきてくれた刺身を手に、リビング(と言うほどのものではないが)に行けば、テーブルの上に缶ビールが並べられていて。それらの隙間を埋めるように刺身を置いて、ソファではなく直に床に座る。
 床はフローリングだが、テーブルとその周辺にはカーペットを敷いているので、さほど痛くはない。俺も慶太も、こうして座って飲むのが好きなのだ。

「さすがにもうオールはツライけどな」

 斜め前に座る慶太が、見るからに苦笑で缶のプルタブを開ける。この場合の苦笑は、歳を感じてのことだろうけど。
 俺も同じように音をたてて開け、二人同じタイミングで缶を掲げた。

「「乾杯!」」

 液体が詰まった缶同士がぶつかる、鈍い音が響いた。




 11年前の俺の失敗は、キスだけしかしなかったこと。そして、翌日慶太より先に声をかけなかったこと。

 友達のフリを続ける俺達は、二人だけの秘密の過去を抱き締めあう。


Fin
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