それはきっと堕ちた瞬間
夕焼け色を反射させた教室のカーテンが、開け放した窓から吹き込む微風に、はたはたと靡く。
夜、慣れない受験勉強を始めたせいか、机に頬杖をついていると次第に眠気に襲われてくる。野球部に所属していた頃は、毎日夜遅くまで練習をし、帰宅して夕飯や入浴を済ませると、それこそすぐに寝てしまうような生活ではあったが、受験勉強に比べれば随分と楽だったように思える。
友瀬は少しだけ目を細めた。遠く、部活動の掛け声が聞こえてくる。その中に野球部のものも紛れている気がして、耳をそばだててよく聞いてみた。
「やっぱり盛り上がるカンジのがいいよなー………って、裕吾、サボり禁止」
ペコ、と軽い音と共に、頭頂部に僅かな衝撃。声のほうへ視線を向ければ、一つの机を挟んだ向かい側に座っている八重倉が、丸めたノートを手にしている。
先程まで、そのノートを机に広げて睨めっこをしていた八重倉だ。返事をしない友瀬を不審に思い、様子を見て寝ているとでも勘違いしたのだろう。あながち勘違いでもないのだが。
「サボってないっすよー。ただ眠くなってただけで」
「寝るな」
「まだ寝てねって」
「これから寝る気かよ」
「まぁそういうこともあるかと……」
へらっと笑って後頭部を掻くと、またもや八重倉のノートが友瀬の頭頂に炸裂する。さほど痛くないのは、八重倉が手加減をしているからだろう。昨夜覚えたことを忘れるほどの衝撃でなくてよかったと真っ先に思ったのは、受験生の悲しい性とでも言えばいいのか。
「寝てる場合か。まだほっとんど決まってねーのに」
「そーだけどさぁ、風涼しいし、吹奏楽の音とかも聞こえちゃったりして……」
「まぁな、眠くなんのも分かるケド」
「だろ?あとアレ、受験ベンキョーのせい。急にベンキョー始めっと眠くてたまんねー」
ぐったりと机にうつ伏せる友瀬。その横に同じように八重倉もうつ伏せる。眠くなるのも分かると言っていたように、恐らく八重倉も眠いのだろう。
八重倉が目蓋を閉じるのを見て、友瀬も目を閉じた。
暗闇の世界の中、遠くで響く合奏音と、すぐ近くで聞こえる互いの呼吸。
奇しくも、ここが教室だということを忘れてしまいそうだ。
二人が眠気を堪えて何をしているのかといえば、受験勉強。と、友瀬は言っておきたい気分ではあったが、残念ながらそうではなく、体育大会のクラス応援において何をやるかについて話し合っていた。
出場競技を決めている最中、部活に遅れるからと、さっさと教室を抜け出していた二人は、知らぬ間に応援係に決められていたのだ。
受験勉強に比べれば数段楽ではある話し合い。しかし、気を抜けば目蓋が落ちるというほど眠い今に至っては、ただの苦痛でしかない。
ふわぁ、と欠伸を一つ。涙が出るのにつられ、おもむろに目を開ける。未だ目蓋を閉じたままの八重倉の顔が、涙で滲む視界に映った。一つの机に二人でうつ伏せているため、互いの顔の距離は近い。規則的に聞こえてくる吐息は、まるで寝息のようでもあって―――。
「慶太」
「………んー……?」
なんだ起きてたのか。
確認のために声をかけた友瀬は、どこか拍子抜けした気分で再度欠伸をした。瞳の水分量が増す。
「ねみーし、今日はもう帰んべ?」
「そだなー……ちっとも進まねーしー……」
目蓋を閉じたまま喋る八重倉。眠いためか、話し方も普段のそれ以上にのんびりとしている。
「けど………風気持ちーしさぁ……昼寝してーなー……」
喋るのに合わせ、緩慢に動く八重倉の口唇。どこか濡れているように見えるのは、間違いようもなく、友瀬の視界が涙で滲んでいるせいだ。きっと本物は、自分のそれと同じように、硬く乾いているに違いない。
しかし、何故なのだろう、確かめてみたい衝動に駆られるのは―――。
「そんじゃー、ちょい寝てく?」
疑問系にしたのは、八重倉に返答させたいがため。
夏までは日に焼けて黒かった肌が、引退してから二ヶ月、あの頃が嘘かと思えるほどに褪せ若干白くなり、濡れる口唇と共に艶かしく映る。
それも全て自分の視界のせいだと分かっているのに、どうしてこんなにも惹かれてしまうのか。
「いーねー………」
歪む世界で、誘うように緩く動く口唇。
「暗くなるまで寝てたら起こせー………」
すぐに触れられる距離にある、濡れたように見える口唇。
本当はどうなのか確かめてみたいなんて、男相手に可笑しいとも思う。けれど、それは相手が八重倉だからなのではないのか。そう考えた友瀬は、それこそが戻れない一歩なのだということにまでは思い至らない。
「いいよ。ちゃんと起こしてやるから」
友瀬の言葉に、八重倉が何事かを返す直前。
開きかけた八重倉の口唇に、友瀬は自分のそれを吸い寄せられるようにゆっくりと押し当てた。
目を見開く八重倉。
息を詰める気配。
静止する空間。
リアルに届く口唇の感触。
触れた口唇の乾つきに、友瀬は唇を合わせたまま微かに笑った。
Fin
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