左手が物に当たると、コツンという小さく硬質な音が鳴る。それが聞こえるたび、俺は大きくて柔和な温かい気持ちに包まれた。照れくさいような、くすぐったいような。鼻がツンとする、とまで言ったら、アイツは大げさすぎると笑うだろうか。そんな想像すらも幸せだと感じる。
左手の薬指ではあまりにあからさますぎるからと二人で話して、敢えて小指に嵌めている結婚指輪。
いや、同性同士の俺たちには結婚という概念は当てはまらないのだから、結婚指輪とは言えないのかもしれない。言葉にするなら、二人を繋ぐ指輪、か。恥ずかしくてそんなこと言えやしない。それでも、無邪気に笑うアイツの顔を前にしたら、胸が痒くなるような言葉もさらっと言えてしまいそうな気がするのは、俺が幸せボケしているせいなんだろうか。湧き出る水を両手で必死に堰き止めるみたいに気持ちを引き締めていないと、愛しい想いが溢れでそうだ。
指輪を渡し合っただけなのに。変わったことといえば、たったそれだけなのに。男女のように苗字を重ねることなどできないのに。どうして、こんなに。
「顔、にやけてますよ」
思案の底から引き上げる声に、俺はハッとして咄嗟に口元に左手を当てた。
「何かいいことあったんですね?」
今の仕草では肯定以外の言葉を言っても、なんの信憑性もない。仕方なく頷く。
聞いてきた本人は、「先輩わかりやすすぎっすよねー」と失礼なことをぬかして、椅子の背もたれを不愉快にギシギシ言わせながら、背伸びをした。
コイツは、俺の隣の机を陣取る同じ企画営業課の後輩。名前を柴野という。俺の二つ下だと言っていたから、恐らく25歳だろう。入社当初は学生気分が抜けきらないような、何をしに会社にきているのかと聞きたくなるような態度だったが、最近はそれもなくなり髪型も社会人らしく、清潔に短く切られた黒髪を立てている。が、
「お前、それ。どうにかしろ」
短めではあるが、顎にヒゲが残っている。明らかに無精ヒゲだ。俺は柴野の顎を指差して眉根を寄せた。
企画といえども、俺たちのいる課は企画営業課だ。もちろん段階として企画に携わる時期もあることはあるが、主な仕事内容は、企画・開発された商品を如何にして営業展開していくかを発案し実行する。営業とほぼ同等のものであり、つまり俺たちが相手にするのは客である取引先であって、だらしない格好をしていて許されるような立場にはいない。
「それって?これ?ヒゲのことですか?」
「それ以外になにがあるっつーんだ」
ヒゲが生えてきているかを確認するときのように、柴野は顎のラインを掌で撫でる。ジョリジョリいう音がここまで聞こえてきそうだ。
「これ、ちょい伸ばし始めたんすよ。俺ってヒゲ似合うと思いません?」
思わん。
と、即座に言えなかった自分が少し情けない。柴野はだらしなく伸ばしたヒゲも似合ってしまうような男臭い精悍な面差しをしている。所謂、男前顔というやつだ。
だからといって、俺がそれを悔しく思っているのかと言われたら、決してそういうわけでもない。「オールバックがデキる男っぽい、かっこいい男前」と女子社員の間で噂されているのを知っている。童顔を隠すためにオールバックにしているだけだし、かっこいいなんて自分で言うことでもないのだが。
「似合う似合わないの問題じゃない。営業のくせにヒゲ伸ばすなって言ってんだ」
「えぇ〜、だっていま企画メインなんだしちょっとくらいイイじゃないすかー」
「ガキみたいに口尖らすな」
柴野の手の隙間から顔をのぞかせている無精ヒゲを、引っ張ってやろうとして手を伸ばす。しかしそれは、目的を果たす前に、柴野の手によって遮られた。
「多嘉先輩、どうしたんすか、この指輪」
伸ばした俺の手を柴野は掴んで、その小指に嵌められている指輪をまじまじと見る。
奇しくも利き手が左手だったことを俺は悔いた。そうでなければ右手を伸ばしていたというのに。
「先週まではしてませんでしたよね」
当然だ。一昨日、土曜日にアイツと渡し合い嵌め合ったのだから。
同性同士で何を気持ち悪いことをと思われるんだろうが、同性同士だからこそ、ただの紙切れですら証を残せないからこそ、こんな些細な絆に頼ってしまう。そんな大事な指輪を、他人に触らせたくない。
「俺だって指輪くらいするっつの。手ぇ離せ」
「でもこれって、先輩にはあんま合ってないですよね。なんか綺麗すぎるっつーか」
「てめ、後輩のくせに似合わないとか失礼なこと言ってんじゃねーぞ、離せ」
「あ、そうだ。指輪といえば、水澤さんが、」
柴野が口にした名に捕まれたままの手が、ぴくりと震えそうになって、極力平静を装おうとしていたところに、
「多嘉、柴野くん。なに?僕の話かな?」
名前だけでなく、本人が現れた。俺とお揃いの指輪を小指に嵌める相手、だ。想い人の突然の出現に、一瞬言葉がつまりそうになる。
視界の片隅で柴野の眉が少し動いた気がして、けれど、そっちを見たときには彼は水澤へ笑顔を向けていた。
「ちょーど今から水澤さんの話するとこだったんすよ」
「そうなの?二人の話題に出るなんて、それは光栄だな」
「おい、水澤。ミーティングは明日だろ?なんか問題発生か?」
そのまま柴野と二人で話し込んでしまいそうな水澤に声をかける。
水澤は開発企画課だ。うちの社は商品を売り出す際、社内で企画開発のためのチームをいくつか作りコンペを行う。チームは、企画営業・開発企画・研究開発の三つの課から、それぞれ二名ずつの選出。今回は企画営業の二名が俺と柴野で、開発企画からの二名の中に水澤がいるという編成なのだ。
コンペで同じチームになる以外ではあまり接点のない開発企画と企画営業だが、俺と水澤は大学から付き合いがある。だから入社してからも仲が良かったし、それが周知の事実だったおかげで割りと頻繁に会っていても、周りに不審がられることはなかった。
「いや、こっちは順調だよ。問題あるとしたらそっちでしょ?デザインに変更かかるとか」
意地悪そうに微笑む顔に密かに鼓動を跳ねさせながらも、ただの同僚を振る舞い素直に謝る。
「………その節はほんとに、ご迷惑をおかけしました」
以前、外注先のデザイン事務所に発注をかけていた広告に変更がかかった。主に文句を言われたのは、広告に描かれている商品そのものの形だった。ということは、広告だけでなく商品自体の形も検討しなおさなくてはならず、詰めに入っていた俺たちには大打撃だったのだ。
「まぁ、企画営業主催でお詫び飲み会が増えるのは中々楽しいけどね」
水澤がイタズラを思いついた子供のような顔で笑う。
ただの友人だった関係が深いものへと変化したのは、大学四年の夏。
三年のころから水澤に対して友情以上の感情を秘めていた俺が、進路が分かれてしまうのならと、玉砕覚悟で想いを告げた。――のだが、予想外に俺の気持ちは受け入れられ、挙句、入社先も同じ会社だったというオチが付いた。嬉しい誤算だったのだから、それに文句はないのだが。
友人だったのが四年弱、恋人になってからは五年だ。出会ってから十年になろうとしているということか。長く連れ添っている気がするのも無理はない。
「でも、あんま飲み会して帰るの遅くなっても困るんじゃないですか?家で、」
「柴野くん。僕はべつに、そんなことでは困らないよ」
柴野が全てを言い終わる前に、水澤が遮るように口を挟んだ。
ふと、何かがおかしいと、感じた。
さっきも同じようなことがなかったか。柴野が全部話してしまう前に、水澤が口を出したことが。
何故、彼は柴野に喋らせたくないのだろう。あのとき柴野は何を話していた?確か、指輪の話じゃなかったか?じゃあ、今は。今は何の話を――――そうだ、帰る時間の話だ。柴野はあの後、何を言うつもりだったんだ。「家で、」に繋がる言葉は何なんだ?水澤が隠そうとしていることは何だというんだ。
一瞬、柴野の眉が動いたような気がしたのも。柴野の話を水澤が二度も遮ったのも。今思えば、何かが――。
「そっすか?俺の妹、怒ると手ぇつけらんねっスよ」
「柴野くん」
ああ……そうか……――――。
「け、」
「柴野!」
長い付き合いでも聞いたこともないような水澤の怒声が、企画営業課のフロア全体に轟く。それまで俺達のことなど気にせず、仕事に専念していた同僚達が、一斉にこっちを向いた。
喉の奥が詰まる。言葉が出ない。栓ができたように塞がってしまった喉は、呼吸すら難しい。ひゅ、ひゅ、と不自然な音を発することしかできない不出来な喉を握り潰したい。脳から送れる指令といえばそれだけだった。頭の中が、真っ白だ。
薬指を空けておかねばならなかったから、俺たちの指輪は小指にしたということか―――。
小指に収まる光が、酷く滑稽に見えた。
気絶していた自覚はない。しかし、あの後からしばらくの記憶はなく、気付けば水澤の姿はなくなっていた。
ただ茫然と動かない俺。その隣に、何故かこっちを見ている柴野。が、いるらしい。視野の隅にぼんやりと見える。
「もうこれ、いらないんじゃないですか?」
柴野が囁くように言って、俺の左手の小指に嵌まる指輪に触れた。
誰にも触らせたくなかった指輪が―――。
柴野の手で、外されていく―――ゆっくり、ゆっくりと。
Fin
柴野×多嘉×水澤、な感じです。柴野の父親が別会社の専務とかで、だから柴野の妹ってのは専務の娘になるわけで、水澤は後々この会社辞めて嫁の父親が専務やってる会社で出世街道走るために結婚したっていう、まぁありがちなネタです。同僚達にも知らせず結婚したけども、嫁の兄貴な柴野だけは知ってたということです。
柴野の「け、」という発言は「結婚」と言おうとしてます。
会社のこととかかなりの捏造なので、そこらへんはスルーしていただければと思います……。
そのうち、柴野×多嘉を書ければと思います。
2008.08.19 杏冶
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